charles262510’s blog

主に野球。時々SMAP及びTEAM SHACHI。ごく稀にその他の事。

最高の笑顔

 現在この文章を打っている時刻は深夜1時34分。蒸し暑い夜だ。久々にエアコンをつけて寝ようかなと思い、寝る前にちょっとtwitterを開いてあるニュースを見た瞬間、僕はいても経ってもいられなくなり推敲もせずに一心不乱にキーボードを叩いている。

 ーあるニュース。それは阿部慎之助の引退という情報だ。その発信源が読売ジャイアンツの機関紙的役割を果たしているスポーツ報知の一面ということが確認できる以上、これはおそらく事実なのだろう。

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とはいえ、引退の情報は本人が認めるまではあくまでも確定しない情報であり、なかなかデリケートな話題ではあるのだが、ここでは引退するものとして話を進めさせてほしい。(もちろん僕としてはこの情報が否定されることを願ってやまないし、あいつ情報に踊らされてこんなことを書いてるよと笑い飛ばされる記事になっていてほしい)なぜなら、その情報を見た瞬間に湧き出た様々な気持ちを一旦整理しておきたいのだ。

 今回のこの記事はなんの情報も資料も見ずに書いている。あくまでも僕の記憶ベースだ。なぜなら何かの記事や情報、阿部慎之助に関する論評は明日以降大量に出回るだろう。だが、それらを読んでしまうと僕の中にある阿部慎之助の思い出が上書きされてしまう気がするのだ。だからこれはあくまでも僕の、2019年9月24日午前1時34分時点での僕の単なる語りだ。その点をこのブログを読んでくださっている方は注意していただきたい。しかし、多分大きな事実誤認はないと思う。それくらいには阿部慎之助のことを見てきたつもりだ。

 僕にとって阿部慎之助という選手はとにかく勝負強く、明るい男という印象だった。まだ彼が若かった2000年代前半は「サヨナラ慎ちゃん」との異名がつくほどサヨナラの場面に強く、そしてヒーローインタビューでは笑顔で「最高で〜す!!」と叫んでいたほどだ。

 潮目が変わった(と僕が思っている)のは2007年だ。2006年にキャプテンを務めていた小久保裕紀がFAでソフトバンクに移籍。そのシーズンオフの納会で原辰徳監督は後継キャプテンに阿部慎之助を指名した。この頃から、阿部慎之助は単なる明るい兄ちゃんではなくなっていった。

 まあそれはそうだろう。僕はまだ社会に出た経験がないが、28歳という選手として油が乗りかかる時期に責任ある役職をチームから命じられたのだ。それで明るい兄ちゃんのままだったらそれは単なるサイコパスというやつだろう。そして阿部慎之助はその期待に応え、チームを引っ張った。2007年から2009年のセリーグ三連覇に主将として、キャッチャーとして大きく貢献したのだ。

 ところで、この時期の原はインタビューなどで「慎之助を7番に置く打線が理想。慎之助が4番だとチーム状態は良くない」という話をしていた。実際、例えば2009年はいクリーンアップを全盛期の小笠原、ラミレス、若手として頭角を表した亀井が担っており阿部は7番という打順に置くことで下位打線も気を抜けない打線を作っていった。

 しかしながら諸行無常といおうかなんといおうか時代は移り変わる。ラミレスは2011年に成績不振で退団、小笠原も統一球の影響もあって全盛期の成績を残せず、亀井も伸び悩んだ。ついでに言えば2010〜2011は2年連続3位となり、明らかにチーム力は衰退した。そこで原は決断した。阿部慎之助を4番に据え、固定をすることを。4番、すなわち打線の核、打線の顔である。打線を引っ張っていかなければならない。そこだけ聞くと名誉なことに思えるかもしれないが、よく考えてほしい。阿部はすでに主将としてチームを引っ張り、捕手として投手陣を引っ張っているのだ。この上さらに打線を引っ張れということのキツさは想像に難くないだろう。さらに、巨人の4番は歴代横綱と同じように○代目と表記され、他球団の4番とは異なる少し特殊な事情もある。原はこの当時のインタビューで「本当は慎之助には4番を打たせたくない。彼にそこまでの負担をかけたくなかった。しかし、チーム事情上仕方がない」といっている。ONの後継者と目されながらもONを超える結果を出せず(まあ当たり前である)世間から叩かれた男であるがゆえの発言だろう。

 しかし彼は見事に応えた。打撃3部門のうち首位打者打点王を獲得(しかもこの年も悪名高い統一球である)。捕手としては内海哲也との最優秀バッテリーを獲得。スコット鉄太郎と呼ばれた強力中継ぎ陣も引っ張った。そしてチームはというと、交流戦ペナントレースクライマックスシリーズ日本シリーズアジアチャンピオンズカップの五冠を達成させたのだ。これで阿部は史上最強捕手との称号を得た。

 しかし、ここからの阿部は怪我との戦いが増えていく。2013年のWBCは当時の代表監督、山本浩司から巨人での役割を期待され、早々に4番、捕手、主将に任命されるも、コンディション不良から思うような活躍ができず、また、シーズンでも2013年の優勝には貢献したものの、シーズン終盤には帯状疱疹となり戦線離脱。2014年オフには捕手引退ファースト転向を発表した(2015年に緊急的にキャッチャーに復帰したが、一ヶ月ほどでファーストに再転向)。また、同年主将の座も坂本勇人に譲り、三足のわらじは終わりを告げた。

 文字ににしてわずか7行ほど。しかし、この7行の間にどれほどの苦悩や葛藤があっただろう。特に捕手だ。おそらく本人も捕手をやりたいはずだ。しかし、次に怪我をすれば選手生命どころか生命が危険にさらされるとも言われている阿部の爆弾が、それを許さない。そして30代後半から本格的に始めた慣れないファーストではなかなか思うようなプレーもできず、「なぜロペスを放出したのだ」などとも言われる日々。おそらくこうしたファンの声は阿部自身の耳にも届いていたのではないか。正直腐ろうと思えばいくらでも腐れたと思う。僕なら腐ってる。

 しかし彼は違った。主将時代とは違った形でチームをサポートし始めたのだ。例えば2016年の自主トレ。彼は小林誠司を同行させ、捕手のイロハを叩き込んだ。そして現キャプテンの坂本勇人のサポートもした。今シーズンは原からの指令もあり、試合中にも積極的に若手にアドバイスをしていた姿も目立った。その姿は、まるで阿部が築き上げた常勝巨人のDNAを若い選手に引き継いでいるかのようだった。

 もちろん選手としても時に代打で、時にファーストで怪我とも戦いながらバットを振り続けた。その結果昨年には2000本安打を、今年は400号ホームランを達成し、歴代最強キャッチャーの中の一人に名を連ねた。

 

 以上が僕が見てきた阿部慎之助の概略だ。

 昨日の試合でも阿部はホームランを放ち、出場機会が少なくても打率は3割前後を保っている。正直まだまだできると思う。しかしそんなことはどうでもいい。本人が現役に満足したのなら彼は引き際を選べる立場なのだ。僕らファンがどうこう言えることではない。阿部慎之助選手、本当にお疲れ様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 というのは建前である。僕はこの選手に関してはそんな簡単に割り切れない。小学校2年の時からずっと巨人で、キャッチャーで、ホームランをかっ飛ばす背番号10の姿に、ポジションは違えど本当に憧れたのだ。そんな選手の引退を誰が素直に受け入れろというのだ。本音はもっと阿部のホームランが観たいし、Septemberに合わせて「ホームラン阿部慎之助」も歌いたい。

 にしても年齢を重ねるにつれどんどん素直に引退する選手に「お疲れ様でした」と素直に言えなくなってきた。昨年の『文春野球』でえのきどいちろうさんという方のコラムから言葉を借りるなら、「時間よ、頼むから俺から憧れの選手を奪わないでくれ」という心境だ。

 今、僕は一人の選手の引退の発表を心からガセであってほしいと願っている。