charles262510’s blog

主に野球。時々SMAP及びTEAM SHACHI。ごく稀にその他の事。

ニューヨークへ行きたいかああああああああ!

平成が終わる。

このセリフを何回聞いただろうか。意識しなくともこれだけ世の中で「平成最後の〇〇」やら「〇〇がなくなるなんて平成の終わりを実感する」やら否が応でも平成と言う元号の終わりを実感させられる。

 

この平成という時代を考えた時、真っ先に思い浮かんだのは「結局俺にとって野球はなんだったんだろう」という事だ。もちろん野球が好きという気持ちに変わりはないしそれは時代によって左右されるものでもないけれど、ここらで僕が観てきた選手の事を一人一人個別具体的に振り返るのもアリなんじゃないかと思った。

僕は野球をたくさん観てきたという自負はあるが観て来た分だけ本当に色々な選手がいた。憧れの選手、伝説の選手、応援したけど活躍したとは言い難い選手、僕の成長とともにプロ野球でスターダムにのし上がっていく選手、同世代のプロ野球…思えばこういった選手達をじっくり振り返る機会もなかった。

小学一年生だった2002年秋から丸15年、野球を観てきた。今年で16年目に突入する。武士の世界なら元服している頃だ。ならここらで僕が好きだった選手達を振り返ってみてもバチは当たるまい。

というわけで、今回から僕が観てきた野球選手を振り返っていきたい。そして、このブログを読んでくださっている方に、このブログを通じて自分に影響を与えた野球選手って誰だろうと考えていただけたら幸いだ。

 

 

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2002年といえば日韓ワールドカップが開催された年である。日本中がトルシエジャパンに湧いていた。御多分に洩れず、当時の僕はサッカー少年であった。戸田和幸という選手が赤いモヒカンにしているのを見てちょっと憧れてみたり、公園でサッカーボールを蹴ってみたりしていた。当時はドイツ代表のオリバーカーンが好きで、決勝でブラジルに負けた時は悔しくてなぜか号泣したものだ。

 

そんなサッカーの記憶が強い2002年、この映像だけは鮮明に覚えている。巨人対西武の日本シリーズだ。西武ドームからのテレビ中継を観ながら、オレンジ色のプラスチックバットを持って松井秀喜のモノマネをしていた。これが恐らく僕が最初に自発的に野球に触れた瞬間だろう。

 

2002年の松井秀喜といえばFA権を取得した年で二冠王を獲得した…らしい。日本人最後の50本塁打も打った…らしい。そして原ジャイアンツの主力として巨人を日本一に導いたのち、取得していたFA権を行使してアメリカ大リーグ(もうどこも大リーグなんて表記しなくなったなぁ)の名門、ニューヨークヤンキースに移籍する事を決意した…らしい。

 

「らしい」が多いのは僕がまだ2002年時点では野球に興味があまりなく、後から知ったことだからだ。

ただ、2003年4月8日早朝母親に叩き起こされたのは覚えている。松井秀喜が移籍した本拠地初試合で初打席初本塁打それも満塁弾を放ったというのだ。寝ぼけ眼を擦りながらリビングに行き、テレビを観てみるとニューヨーカー達からスタンディングオベーションを受けるピンストライプに身を包んだ背番号55の姿がそこにあった。

なんかやべえ事やったんだな。それは思った。そして学校に行くとクラスで仲が良かった女の子もその事を話題にしていた。どうやら彼女も母親に叩き起こされたらしい。朝、小学二年生が会話の話題のメイントピックとして松井秀喜のホームランを挙げるーーー。

後にも先にも女子と野球の話題で盛り上がったのはこの一回きりだったのでやはり松井秀喜という人間の凄さを感じる。

 

そうして野球を観はじめた時からすでに脂が乗っていた選手だった松井秀喜はその後もMLBで活躍を続ける。ニューヨークヤンキースでは4番も務めた。

ーーーーーーヤンキースで4番を打つ。これはレアル・マドリードで背番号7を背負う、バルセロナで背番号10を背負う、それくらい凄い事である。

多くの日本人ファンは松井秀喜に豪快なホームランをかっ飛ばしてホームラン王を取ることを期待していたようだが、僕は松井秀喜が4番として打点を稼ぐ姿に憧れた。野球チームでは当然のように松井モデルのバットを買ってもらい、松井モデルのバッティンググローブをはめた。

 

そんな憧れの選手が最高に輝いたのはやはり2009年ワールドシリーズだろう。あの時の松井秀喜はまさに神がかっていた。特に相手投手のペドロマルティネスはボストンレッドソックス時代松井秀喜は苦にしていた印象があるのだが、この時の松井秀喜はマルティネスからも打った。

このワールドシリーズの成績は.615(13-8)3本塁打8打点であり、打率は史上3位の成績らしい。ホームランも打てるイチローじゃないか。

 

この翌年、松井秀喜は今大谷翔平が所属するアナハイムエンゼルスに移籍し、ニューヨークとは完全に縁が切れた…なんてことはなかった。

ワールドシリーズ優勝チームには翌年チャンピオンリングの贈呈式があるのだがそれが対エンゼルス戦に組み込まれたのだ。そしてこの時の写真がとても素晴らしい。

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この一枚だけで彼がニューヨークにどれだけ愛されていたのか分かるのではないか。(ちなみにこの時渡された松井の指輪は偽物で後でこっそり本物をジーターが渡すというよくわからないサプライズもあった。)

その後、彼は2012年末に引退を表明した。僕が高校二年生の時だった。その時の僕はまぁ仕方がないという気持ちもあった。衰えも見えていたし、ここからMLBで活躍できるというほど甘くはないという事ももう知るくらいには大人になっていた。

でも、子供の頃から憧れていた選手の引退はやっぱり悲しいものがあった。特に喪失感があったわけでもない。ただ、悲しかった。大げさな話、当時身内の死も体験したことがない僕にとってみればあれが初めて大人になった事を感じた瞬間だったのかもしれない。人の不老ではない。そんな当たり前のことを松井秀喜から学んだ。

 

引退からもう6年が経った。今彼はニューヨークヤンキースGM特別アドバイザーとかいうなんだかよく分からん肩書でヤンキースに戻ってきている。よくわからん肩書でもヤンキースに所属しているということはそれだけ彼が残した功績が大きいということでもあるだろう。

以前から彼の周りではゆくゆくは巨人の監督にという雰囲気がある。ただどうも彼自身はやる気はないようだ。まぁそれでもいい。彼は彼のペースで生きてくれればなぁと思う。日本野球への貢献という観点からすればもう十分貢献をしている。そして何より野球界への貢献の道は一つではない。日米野球でコーチとして出たり、ヤンキースで色々とコーチをしたりと日米野球の架け橋となることも貢献になる。

 

そんな松井秀喜さんのお話でした。

 

松井秀喜(日米通算成績)

打率 .293(歴代38位)
HR  507(歴代7位)
打点  1649(歴代5位)
安打  2643(歴代4位)
2塁打 494(歴代3位)
得点  1557(歴代4位)
塁打  4714(歴代5位)
四死球 1451(歴代4位)

 

 

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