金木犀の香りに包まれて。
金木犀の香りが嫌いだ。あの妙に甘ったるい匂いがそもそも嫌いだ。そして“ヤツ”は9月のある時期を境に急に自己主張をしてくる。その自己主張がいつも僕に「夏は終わったんだよ。もう冬が来るぜお前今年は何をしたの?」と高圧的に聞いてきてる気がする。
母親が持っていた漫画に「小さな恋のものがたり」という漫画があった。その漫画で主人公の女の子が遅刻しそうな朝に金木犀の香りを嗅いで気分がまったりして学校に遅刻したという話があったのだが、僕にはそれはまるで理解できないものだった。
金木犀の香りが好きなんていう奴とは仲良くなれない….気がする。
あともう一個金木犀の香りが嫌いな理由があった気がする。まぁいいや。ここまで書けば僕が金木犀を忌み嫌っているのが伝わるでしょう。
でも、今日は金木犀の香りを嗅ぎながら歩きたい気分だった。そんなわけで友人と飯田橋で飲んだあと四ツ谷までのんびりと歩いてる。BGMにマルーン5のSugarを聴きながら。
2018年9月28日東京ドームの巨人対横浜の試合前に1人の男の引退セレモニーが行われた。
そう、村田修一の引退セレモニーである。
この日に村田修一の引退セレモニーが行われると発表された日からネットなどでは(そもそも中止になった試合の振替ということもあって)「客寄せのためにやる」などという意見が散見された。
確かに興行面を考えるのであればその側面は否定できない。プロ野球はエンターテイメントである以上いかに集客するかという課題をクリアするために人気選手の「引退セレモニー」は人を集める。
しかし、引退セレモニーを開くだけで集客できるのであればそう苦労はしない。問題はその選手は引退セレモニーを開かれる価値があるのか?そしてそのセレモニーにファンは来たいと思うのか?というところにある。
結論から言えば村田修一という男はこの2つの課題をクリアした。細かい実績はめんどくさいのでググって欲しいが十分である。そして、選手もファンもファンはこの男の事を十分に愛していた。
今日僕は実際に現地にいたのだが、村田修一への愛をたくさん感じた。長野久義は村田修一の巨人時代の出囃子であるマルーン5のSugarを今日限定で出囃子にする、という粋なことをしていたし(そしてなんと長野は試合を決めるサヨナラホームランを打った!)、試合後に両軍合同で三塁ベース付近でからの胴上げをしていた。隣に座っていた横浜のユニフォームを着ていた男性も巨人時代の村田のユニフォームを手に持って村田に声をかけていた。栃木ゴールデンブレーブスのユニフォームを着ていた男性もいた。村田が場内一周をする時両軍の応援団がそれぞれの球団に所属していた当時の応援歌を歌っていた。そしてもちろん僕も。多分人生で「村田」という単語をここまで発した日は無いだろう。いや、もしかしたら今日だけで人生で発した「村田」という単語の通算回数を超えたかもしれない。
もし巨人が村田を放出しなかったら?もし各球団が若返りを図るタイミングじゃなかったら?もし横浜にそのままいたら?村田修一の引退が発表されていこうそんな「たられば」をずっと考えていた。
でも今日の引退セレモニーを観て思った。「あぁ、村田修一はこれでよかったな」と。確かに村田修一は名球会に入れなかった。現役をボロボロになるまでやったとは言い難い。だけれども、多くのファン、選手に愛されていた。
才能があっても努力しても十分な結果が出てくるとは限らない。それは人間にはどうしようもできないものも介在してくるからだ。だけれども、その人が必死に足掻いた足跡は消えない。人は必死になっている人に心打たれる。その姿は大なり小なりその人の人生に影響を与える。言うなればその人の人生の伴走者となってくれる。そして伴走者になってくれた報酬は「愛」という形になって返ってくる。今回の村田修一の引退セレモニーはまさしくその「愛」が具現化したものだと言えるだろう。
少なくとも1年前に退団した選手の引退セレモニーをここまで大々的にやった例を僕は知らない。
これから村田修一はどんな人生を歩むのだろう。でもきっとまた多くの人の伴走者になってくれるはずだ。そして多くの人もまた沢山の「愛」を具現化させるはずだ。今日がそうだったように。
そんな事を考えながら歩いていたら四ツ谷に着いた。電車に乗ろう。今日はマルーン5のSugarを家に着くまでとことん聴き倒してやろう。それが僕なりの村田修一への「サヨナラ」だ。
あ、なんで金木犀が嫌いなのか思い出した。この香りがする時期に引退発表が多くて金木犀の香りに憧れの選手が連れていかれる気がするからだ。